単なる価格設定のミスでは?

MAKE: Japanに「絶望の落とし穴」に落ちないためにはという記事がある。

大変にクールな電子製品(この場合はとくに手作り品)を売る企業は、この数年で爆発的に増えた。新しい製品が市場に登場するたびにとても興奮させられるが、とりわけ驚かされるのは、それらの企業が繰り返し直面する困難についてだ。そうした製品は、3つの「バケツ」に分類することができる。ハッピーなバケツ、仕事のバケツ、そして絶望の落とし穴だ。

びっくりするほど多くの製品が3つめのバケツに落ちていく。私はこれを「絶望の落とし穴」と呼んでいる。これらの製品は、開発者が期待していたよりもずっと多くの注目を集めている。非常によくできているが、趣味の範囲の、一度に10個も作れたらよいというツモリで作られている。そこへ数千の単位で注文が入ると、開発者は厳しい決断を迫られることになる。本業の収入ではその注文に応えきれない。それを作るために生活のあらゆるものをなげうって、週末はすべて製作にあてなければならない。150袋もの抵抗やLEDを数えたことのある人ならわかるだろう。それは苦痛以外のなにものでもない。

これって、単なる価格設定のミスだろうと思うのだが違うだろうか。自分のクールな電子製品に安い価格を設定したい気持ちは良くわかる。安い方が、より受けるだろうと思うし、高かったらクールでないし存在価値が無い。それに、この製品で大儲けできると思っているわけでもない。

そこで部品代に少しばかりの手数料を加えて、損はしない程度の価格で売り出す。注文があれば嬉しい。手間の割に、儲かっていない気がするが、喜んでもらうと嬉しい。

しかし、記事にあるように数千個の注文が来たらパニックだ。人を雇えるほどの利幅は無いから、全て自分でやらなければならない。自分でやるにしても、利益を作業時間で割ってみると、時給など無いに等しい。

ここで気付くべきだ。価格設定のミスだと。自分がやってきたことはビジネスではなく、ボランディアだったと。自分の労力を極めて低価格で提供し、同好の士に喜んでもらうボランティア活動だったと気付くべきだ。数千個単位の注文が来たら、そんなにボランティア活動する余力はありませんのでお受けできませんと断るべきだ。

全ての作業を他人に任せ、費用を払っても利益が残るのが正しい価格設定だろう。そうでなければボランティア価格ということになる。

となると、記事にある「コミュニティで支えあう」というのが何のことだかわからない。利益が出なくて有償では他人に頼めないから「支えあう」? ボランティア活動なら、負担を「支えあって」なんとかするというのはあるかもしれないが、企業への数千個の注文に応えるために「支えあう」のであれば、低報酬の作業を分けあい、企業に利益をもたらすだけでまったく意味が見出せない。間違っていると思う。

中規模の生産について、さまざまなノウハウを集めて、安く作る方法を広めるというような活動の方が嬉しいのだけれど、どうだろう。

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